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第三章 99.9%の証明5

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-09-06 15:10:25

**

 病院に到着して三十分後。アルファ対応の特別隔離病室で、一通りの検査が終わった。

 主治医はカルテを閉じると、静かな口調で智臣へ説明する。

「原因は、おそらく99.9%の適合によるものです」

 智臣は何も言わず、医師の続きを待った。

「九条さんは、フェロモン濃度が極めて低い欠陥オメガです。本来ならヒートも軽く、一生このまま過ごす可能性もありました。しかし、99.9%という極めて高い適合率を持つアルファと長期間生活圏を共にしたことで、抑え込まれていた本能が急速に目覚め始めています」

 ベッドでは、湊が点滴を受けながら眠っていた。頬は熱を帯び、額には薄く汗が滲んでいる。浅い呼吸を繰り返すたび、病室には淡く甘いフェロモンが漂った。

「今後は、これまでより頻繁に同様の症状が現れる可能性があります」

 医師は、少し言葉を選びながら続けた。

「薬によって進行を遅らせることはできますが、完全に止めることは難しいでしょう」

 智臣は、静かに目を閉じた。

「……本人には、まだ話さないでください」

 医師は驚いたように、目を瞬かせる。

「ですが、ご本人にも知る権利が――」

「責任は私が負います」

 その一言で、医師は口を閉ざした。

「……承知しました」

 医師は軽く頭を下げ、病室を後にする。ドアが閉まり、部屋には静寂だけが残った。

 規則正しく鳴る心電図。点滴が落ちる小さな音。そして、眠る湊の浅い寝息。

 智臣はゆっくりと、ベッドの傍らへ歩み寄った。あと一歩――それだけで届く距離。しかし、その足はそこで止まる。

 触れればいい。額の汗を拭いてやればいい。苦しそうな眉間を撫でてやればいい。

 そんな簡単なことさえ、自分には許されなかった。

(……今は駄目だ)

 99.9%。その数字が意味するものを、この部屋で理解しているのは自分だけだった。不用意な接触は、湊のヒートをさらに加速させる。

 そして――自分自身の理性も。

 智臣はゆっくりと拳を握る。爪が手のひらへ食い込むほど強く。その痛みで、本能を押し殺すように。

 その時だった。

「……しゃ、ちょう……」

 掠れた声が聞こえた。湊のつぶやきに反応して、智臣が顔を上げる。眠ったままの湊が、小さく眉を寄せていた。

「……智臣、さん……」

 初めて呼ばれた自分の名前。その二文字だけで、胸の奥が大きく揺れた。

「……寝言か」

 思わず苦笑が漏れる。

「反則だ」

 仕事では、世界中の企業相手に一歩も引かない。どれほど不利な交渉でも、至極冷静でいられる。それなのに、眠っている一人の青年の寝言だけで、これほど心を乱されるとは思わなかった。

 智臣は深く息を吐く。そして、ようやく決心したように手を伸ばした。点滴の刺さっていない左手。その指先へ、そっと自分の指を重ねる。

 握るわけではない。ただ、触れるだけ。それだけのはずなのに――熱い。たったそれだけの接触で、胸の奥の本能が激しく疼いた。

 今すぐ抱き寄せたい。その身体を腕の中へ閉じ込めたい。甘い香りを、誰にも渡したくない。

 アルファとしての本能が、理性を激しく叩き続ける。

「……っ」

 智臣は、慌ててすぐに手を離した。

 それ以上は駄目だ。ここで一線を越えれば湊の意思とは無関係に、運命へ引きずり込んでしまう。

 それだけは、したくなかった。

 眠る湊は、小さく息を吐く。その表情は先ほどより、少しだけ穏やかになっていた。

 智臣は眼鏡を外し、指で眉間を強く押さえる。

 世界中の誰よりも冷静でいることを求められる男が、今はたった一人の青年を前に、自分の理性と戦っている。

「……困った」

 誰にも聞こえない独り言が、静かな病室へ溶けていった。

***

 翌朝――湊が目を開けると、消毒液の匂いが鼻をかすめた。柔らかな朝日が白いカーテンを透かし、病室を淡く照らしている。

 何度か目を瞬かせてから、重たい瞼をしっかり開けた。点滴の管が腕に繋がっていることに気づき、小さく眉を寄せる。

 最初に感じたのは身体の重さと、首筋に残る微かな熱だった。

 昨夜の息苦しさは嘘のように引いているが、代わりに疲労感が全身に残っている。喉が少し渇き、頭の芯がぼんやりとしていた。

 視線をゆっくりと巡らせると——部屋の隅に置かれた簡易ソファで、智臣が眠っていた。いつも完璧に整えられた黒髪が少し乱れていて、ネクタイは緩く外され、眼鏡を外したまま顔を少し伏せている。

 スーツのジャケットは脱いだままソファの背に掛けられ、シャツには細かな皺が刻まれていた。

 それは普段なら決して人前で見せない、無防備な姿だった。それだけで、ここを一度も離れなかったことが分かる。

 湊の胸に、驚きと戸惑いが同時に広がった。

(……社長?)

 智臣がここにいる。しかも一晩中、俺の傍に。記憶が曖昧で、昨夜のことはほとんど思い出せない。

 ただ熱くて苦しくて、誰かに強く抱きしめられたような……そんなぼんやりとした感覚だけが、心の底に残っていた。

「……社長?」

 掠れた声で呼びかけると、智臣はすぐに反応した。長いまつ毛が震え、ゆっくりと目を開ける。一瞬だけ眠気が残っていた瞳が、すぐにいつもの冷静な光を取り戻した。

 智臣は体を起こし、眼鏡を手に取ってかけ直しながら、静かに立ち上がった。

「気分は?」

 それは短く、事務的な問いかけだった。智臣の表情からは、感情が一切読み取れない。まるで何事もなかったかのように、落ち着き払った顔をしている。

 湊はベッドの上で上半身を起こし、わずかに首を傾げた。

「……あの、俺……どうしたんでしたっけ」

 自分の声がまだ少し弱々しいことに気づきながら、湊は記憶を探るように眉を寄せた。

 昨日のことは、まるで濃い霧に包まれたようにぼんやりとしている。

 熱かったこと、苦しかったこと、そして誰かの温もりがとても近くにあったような気がする……それ以上は、どうしても思い出せない。

 智臣は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに湊に戻した。

「軽い発熱だ。過労が重なったらしい。今日は安静にしていろ」

 淡々とした説明だった。しかしその声は、いつもより少しだけ優しい響きを含んでいるように、湊には感じられた。

 湊はベッドのシーツを軽く握りしめ、小さく頷いた。

「すみません……ご迷惑を」

「謝る必要はない」

 智臣は短く答え、病室の窓際に移動した。朝の光が彼の横顔を白く照らす。

 一晩中眠らずに付き添っていた疲れは、確かにその端正な顔に影を落としていたが、それでも智臣はいつも通りの冷静さを崩さなかった。

 湊は智臣の後ろ姿を見つめながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。

 昨夜、何か大事なことがあったような……でも、それが何だったのか、どうしても思い出せない。

 ただ、智臣の香りがまだ微かに鼻の奥に残っている気がして、なぜか胸が熱くなった。

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